

社会構造の変化 「輝かしい教育」が失われた背景
いつの時代も、多かれ少なかれ老人と若者は相容れない感性を持っているものですが、今の時代ほど顕著に差が現れている時代は珍しいかもしれません。モダンから、社会全体がポストモダンへ移ろったゆえではないかと私は考えています(正確にはモダンとポストモダンの間でふらついている)。モダン、近代という時代は、人間万能主義の時代でした。先進国は進歩というものを信じ、追い求めていた時代です。一言で言うと「輝かしい或るもの」を追い求めていた時代ではないでしょうか。
ですが、ある水準まで豊かさが達すると、それ以上のさらなる進歩を追い求める人間はどんどん減ってきます。インフラが整い、衣食住が足りると、そこから先の豊かさ、幸福は細分化してしまいました。国を富ませよう、という必要性を多くの人間が感じなくなった世界、「輝かしい或るもの」に魅力がなくなった時代、それがポストモダンであると定義できます。
共同体とは、共通観念と共通目標を持った集団ですので、目標や意志が細分化してしまえば、当然共同体は失われます。以前は地域という単位で共同体が成り立ち、その共同体内での常識が人々を支配してきたわけです。上記のような理由から共同体が弱体化してきたために、共同体の中の常識を常識とする人間と、そうでない人間との間に溝が生まれている。
この溝こそが社会構造の変化です。社会が変わると人間が変わることなんかあり得るのか? あり得ます。教育により人間は変化します。出生率が如実に物語っています。昭和24年には過去最多269万6638人生まれていますが、経済状況が良好だから出生率がいいのではありません。むしろ、貧しい社会でこそ、出生率は高いのです。貧しい社会にとって子供は貴重な労働力だからです。しかし、社会が豊になるに従って、子供の手は必要とされなくなり、富める社会において子供は贅沢的意味合いとなるのです。労働的認識として生まれた子供と、贅沢として生まれた子供とでは時間の使われ方が違います。この意味における教育とは、学校教育のみを指すのではなく、使われる時間全般を指します。
労働の目的に生まれた子供たちは、もちろん共同体の中に組み込まれます。共同体の一員として輝かしい或るものを追い求めます。贅沢として生まれた子供は、労働の共同体から離されて育てられるわけであり、ロストジェネレーションとは雇用を失った世代などではなく、輝かしい或るものに対する幻影を失った世代なのです。
私も教育の現場にいて実感したことですが、教育の目的は「輝かしい或るもの」を追いかける手段を教えようとしているのです。明治大正昭和初期までは通用したかもしれませんが、輝かしいものに対する懐疑と、幸福や意志の細分化により、魅力は潰えました。それなのに、教育の目的は未だに昭和初期のまま。生徒はもとより、教員の多くも教育の目的に懐疑的であり、古き共同体理念を語っていても言葉が空回りする感じです。
故に、まず行政のとるべき道は、人々の意志の細分化を肯定することです。さらに、一昔前まで輝かしいものとされていた、立身出世や富国強兵、重化学工業、経済大国といった理念を一度括弧に入れて、国を回すための方策をもう一度考えることが必要です。行政はどこまで介入すべきなのか明らかにすることが早急に求められます。その上で、地域共同体の重要性を明らかにするのが順序だと考えます。
教育改革
教育とは、やたら滅多に、なんでもかんでも、手当たり次第に教えればいい、といったものではありません。必ず、社会のバックグラウンドとリンクさせる必要があります。例えば、日本の公教育でコーランを教育するなどということはありません。教育はその時代と、その地域に密接に結びつけられて行われるものです。逆にいうと、その地域と、その時代があるからこそ、その時の教育があるともいえます。
しかし、教育のシステムが複雑に牢固に組み立てられるに従って、時代や地域の変化に教育の形態が柔軟に反応しにくくなってしまいました。上に述べた「輝かしい或るもの」を追及するような教育がまさにそれであります。時代の変化に対応した新たな教育理念、私はそれを教育改革と呼びます。
いつの時代にも、思考や情念の核となる社会一般を覆っている思想が存在しています。儒教思想、民主主義、神学、進化論、実存主義、共産主義、等がそれにあたり、お互いがお互いを浸食し合い、ある時代の空気を支配することになるのです。私は教育改革を行うにあたり、進化心理学的思考の導入を検討しています。進化心理学とは、進化(発展とされる今ある全て)とは意図的、能動的な現象ではなく、偶然の産物であり、多く生き残った結果である、とする考え方です。鳥は空を飛ぶために羽根を進化させたのではない。たまたま、羽根が出来て空を飛んだ個体が優先的に生き残った結果、現在の鳥は空を飛ぶようになったのです。人間の食欲なども、天賦のもののように思われがちですが、以前は食欲を持たない個体も存在したと考えます。しかし、食欲を持たない個体よりも、食欲の強い個体の方が多く生き残った結果、自然淘汰を繰り返し、現在では食欲を持った個体が繁栄している、そのように考えます。
この考え方を導入すると、昨今話題となっている愛国心教育や道徳教育も全く違った観点から論じることが可能になります。
愛は盲目である。恋愛なら構いませんが、愛国心が盲目では困ります。愛国心を教える前に、愛を教えるべきではないでしょうか。人間は意外と意志の自由にならない部分が多い。心臓の鼓動などは意志の自由にはならない部分です。呼吸などは意識的にすることも出来るし、無意識にすることも出来ます。人間はあまりにも生存に直結する選択を、意志の自由にさせなかった(これもそういう個体が優先的に生き残った結果といえます)。愛とは人間の意志の自由にならない部分です。合理性を問わず、なんらかの対象に向かいシフトしてしまう感情の一形態です。
故に、愛国心も本来は合理性を問わない自然感情であるはずですが、そのような自然感情が激減して(もしくは自然感情ではなく後天的に教育される愛国心の素養が激減し)、このままでは国が回らなくなると判断した政府は教育基本法に愛国の文字を書き込んだわけです。道徳教育も同じで、道徳とは本来共同体の中で培われ、自然感情に類似した感覚で振る舞われるものです。しかし、共同体が分裂し人間の目的が細分化した社会では、道徳の落としどころとなるコンセンサスが非常に得にくい状態になっています。どのような道徳の教科書が出来上がるのか、大変興味深い。道徳教育の中身がまだ分からないのでなんとも言い難いですが、どうも、時代を逆行しているような気がします。戦前への回帰という意味ではなく、ポストモダンへの流れをモダンへ遡っているという意味です。
現代社会において、教育とは最も有効な勢力です。アッラーを教えればアッラーを信じるようになり、民主主義を教えれば民主主義を信じるようになる。愛国を教えれば、高い蓋然性で以て愛国者が増えることでしょう。反日的教育を行えば非愛国者が増えるように。教育とは社会をデザインする根幹です。教育により人の心の動きは誘導されるからです。上記のように、ともすると教育とは非常にイデオロギーに傾きがちです。私はなるべく教育は一つのイデオロギーに偏らず、広範に思考できる力をつけるべきではないかと考えています(広義にはこれもイデオロギーとなりますが)。なんとなれば、一つのイデオロギーが絶対的に正しいと証明されているわけではないからです。自然感情と非自然感情の弁別、また教育によって培われる自動的な感情は、教育においてもっと積極的に考えられるべきでしょう。当然、その考え自体も疑う羽目になり、最終的には無限サイクルのようなものに陥るわけですが、私は思考の無限サイクルを忌避しません。歓迎すべきことではないでしょうか。サイクルの最中に沸々と湧き出る新しい思考は、そのサイクルをいつか破るかもしれません。
(前号のビラで強力な地域社会を謳ったら、自民党だとか戦前だとかいろいろご批判を受けました。しかし、どれもあてはまらないことが分かっていただけたと思います。私の強力な地域社会とはより住みやすくするための主体的選択の結果であり、間違えても、なし崩し的に、非選択的に集団にアブソーブしてしまおうなどというものではありません)
音楽教育を例に、一つの試み
私は以前、高等学校音楽科の教員をしておりました。以下の文章は、当時、自分の教育がなにを目的にしているのか、実際授業を行うにあたり、覚え書きのようなつもりで記したものです。
近年の音楽教育を参勘するに、小手先の技術のみに重点が置かれ、「音楽をもってなにを教え得るのか」というもっとも重要な本質がスポイルされているように思えて仕方がない。音楽だけではないかも知れない。歴史なども、年号を覚えるだけで、歴史的意味を知らなければなんの意味もない。太平洋戦争は1941年に始まって1945年に終わって、1947年、日本国憲法が施行された。年号を覚えるだけでは意味がないのは一目瞭然である。一体、どういう流れがあり、どういった契機で開戦し、いかに戦い、いかに敗北に繋がり、当時の世界情勢も鑑み、戦勝国がどういった意味を込めて日本を占領して新憲法発布に至ったか、重要なのはそういうことの方なのではなかろうか。音楽も同じである。三連符が綺麗にはまる、音程を正確に歌える、こんなことは枝葉末節に過ぎぬのである。
では、音楽に於いて重要なこととはなにか。プラトンの時代に謳われた「音楽とは心を育成する為のものである」ということに他ならない。古代ギリシャのエートスである。体育は体を作るため、音楽は心を作るためのものである。だからこそ、東洋の儒教思想に於いても、西洋のリベラルアーツに於いても、教養としての音楽が重視されたのである。
されど、我が国の歴史を見るに、音楽の精神は平安貴族をもって潰えてしまった。鎌倉から世は武家の支配となり、歌舞音曲は軽薄なものと扱われるようになり、明治維新後はもっぱら女がやるもののようになってしまった(明治期は近代化を急ぐあまり、物質主義的な傾向が強かったのが原因と思われる)。その感覚は現在まで受け継がれ、ピアノのお稽古といえば、おおかた女子である。
手慰みや、余暇に音楽を楽しむことがあっても、世の男子は小中高校の音楽の授業を除き、音楽を習うということは極めて少なかろう。理系大学、文系大学、に進む子弟の数に比べ、音楽系に進む子弟の数は著しく少ない。音楽では飯が食えぬ、とはよく言うが、それならば文学で飯が食えるのか? 歴史学は? 哲学は? 法律学は? 専門での飯の食えなさ加減はどれも似たようなものではないのだろうか。結局は専門外に進む人間が多い。故に、音楽で飯が食えぬのは、音楽がその他の学問に比して実用性が劣るゆえではなく、他の理由によるところが多いのである。偏見とも、ある種の真実でもある先入観が、音楽をなおいっそう飯の食いにくい分野にしてしまっているのである。
これは何故か。すなわち、学校での音楽教育の結果に他ならない。私が最も問題だと感じるところは、音楽教育の観念が明治期に採用したものから些かも変わっていないことにある。明治時代は西洋音楽に触れるという意味もあり、その紹介や歴史を説明し、体験するだけで精一杯だったのかも知れない。だが、今は西欧音楽に触れる機会など五万とあり(むしろ触れぬことの方が難しかろう)、カラオケやらなにやらで、歌を歌う機会も明治期に比べて膨大に増えた。近年は井上陽水やサザンオールスターズなどの楽曲を採用する教科書が出てきたとはいえ、やはり、その本質は明治期のままである。
音楽は他の学問とは違う。人間が歌うのを聞いていればわかるとおり、音楽には食欲とも似た欲求というものがある。何日も音楽に触れていないと音楽が恋しくなり、ある時ふと音楽を聴きたくなったり、歌いたくなったりするものなのである(ふと鶴亀算を解きたくなる人間は少ないと思う)。それを無視して音楽をやるのは、非常に音楽の本義を損なうものであると言わざるを得ない。精神的意味を教えずしてやればなおさらである。
かといって、教育であれば、好き勝手を許すことはできない。が、幼稚園から高等学校まで、取っ替えひっかえ歌を歌わせ続ける現代の音楽教育の目指しているものが一体なんであるのか、私には全く理解できない。実技や音楽理論は音楽に於ける枝葉末節なのである。教科書は小学校から高校まで、載ってる歌が違うだけで、後はさしたる違いがない。歌を歌う意義すら見いだせない。音楽史のみ、本質の一助を担っている。少し考えればわかりそうなことである。実技と理論が本義であるならば、音楽は到底リベラルアーツに数えられるものなどではあり得ないはずである。
リベラルアーツとは人間を奴隷から人間にするための学問である。プラトン的に言うならば、音楽はそれを媒介にして、イデア(完全なる世界)の世界を知る、もしくは、知ろうとする試み。現代的に言うならば、音楽の不確実性による、主観と社会と自我の関係性を探る試みである。
音楽教育最大のポイントは音楽の「不確実性」と「共通性」の交差であると私は考える。音楽を思考するとはなんのことか? 音楽の不確実性についての思考に他ならない。この音楽は一体なにを意味しているのか? 百人百様の解釈がある。そこで生まれる他人との差異は一体なにを起源としているのか。また、同一の感覚にはどのような意味があるのか。そのような他者との共通性と差異を探る想像力を音楽は与えてくれる。
もう一つ。音楽は我々を社会から、その他の規定や枠組みから、曖昧な形ではあるが自由にする。これも、音楽の不確実性に由来する。現実界とは明らかに違うが、なんだか判然としない音楽の世界、音楽は我々の心に直接働きかけて、別次元の世界に連れて行こうとする。我々は常に社会と遺伝子に規定されている。私がこういう文を記しているのもこの社会があればのことであり、ひいては、このような思考をしているのも、この社会があればである。私には手があり足がある。このように規定されているのは遺伝子のせいである。鳥になるにはこの遺伝子を超克せねばならない。真実かどうかは知らぬが(おそらく真実ではないが)、音楽が我々の社会よりも一段高い場所にあると仮定すると、音楽の絶対性を足がかりに、社会から主観を自由にして、もう一度この社会を見つめ直すことができる。音楽が美しければ美しいほど、我々は我々を規定している社会との差異を感じずにはいられない。しかし、その美しさを、我々はまた説明能わないのである。もどかしいが、音楽は社会を超克するヒントであろう。
音楽により勇気をもらうことができる。アップテンポの威勢の良い曲を聴いて、ノリノリになって車をぶっ飛ばしたことがある人は多いと思う。音楽から優しさをもらうこともできる。悲しみを分かち合うこともできる。幸福を得ることができる。これらは誰でも感じたことがある現象だと思う。そして、多くの人間はここで止まってしまう。音楽を聴いて和みました、音楽を聴いて昂揚しました、音楽を聴いて悲しみを放出できました、これで終わってしまう。これだけなら教育など必要ない。この先に進む方法こそ、本来の音楽教育が意味していたものではないのだろうか。音楽で得た感情、確かな幸福をどのように解釈すべきか。音楽とこの不幸な現実の比較。すなわち、音楽の影響により、現象界から無条件で離れることが出来る感覚、これこそ音楽の特権なのである。
他者との差異、規定する社会の超克、これらを理解することが、知性と呼ばれるものではなかろうか。現象界から離れるということは、自分の感情に重きを置かぬことであり、メタな視点から社会と自己の関係性を見直すことである。
人間とはどうしても感情が先走ってしまう生き物である。先走る感情を暴走させないためにも、どこかに踏みとどまり、冷静にその感情自体を、もう一つの感情を使って分析する必要がある。音楽はそのヒントとなるべきものなのである。音楽からそれらをつかみ取れるようになることが、音楽を学ぶ真の意義であり、音楽教育とは斯くあるべきものでなければならない。